ピアニスト

世界最高のピアニストのランキング(歴代)

楽器の演奏家ランキング「史上最も偉大なピアニスト」です。歴史上、世界最高(世界一)のピアノの巨匠はだれ?---豪クラシック音楽誌「Limelight(ライムライト)」が2015年1月、世界の有名なピアニストたちの投票により選出しました。以下は、そのトップ10の一覧です。1位はロシアのセルゲイ・ラフマニノフです。動画(Youtube)とともにお楽しみ下さい。(大畑亮介)

順位 ピアニスト名、国、生年 試聴、動画、解説
セルゲイ・ラフマニノフ
(ロシア)
1873~1943年
【試聴(Amazon)】
「ラフマニノフ自作自演 ピアノ協奏曲第2番&第3番 CD」→ 【動画(Youtube)】
「ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op.18:第2楽章」→

【映画(Amazon)】
「ラフマニノフ ある愛の調べ」→ 【解説】
偉大なピアニストであり、作曲家。ロシア・オネグ生まれ。4歳から母親にピアノを習い、ペテルブルク音楽院の幼児課程で学んだ後、モスクワ音楽院で作曲をアレンスキー、タニェエフに、ピアノをシロティに学んだ。

作曲はピアノ曲が中心で、1892年の前奏曲嬰ハ短調で名をはせた。1901年、ロマンチックな旋律が美しい「ピアノ協奏曲第2番」で世界的な名声を得た。その後も「交響曲第2番」「ピアノ協奏曲第3番」などの傑作を生んだ。モスクワ楽派の一人で、豊かな旋律性と叙情性が作風の特徴。独特のノスタルジックな美しい旋律は、日本人の感性にしっくりとなじみやすいとも言われている。

モーツァルト以来作曲家は同時に演奏家であったが、19世紀末から分業の時代に変わる。そんな流れの中でラフマニノフは「最後の作曲家兼演奏家」だったと言われている。1917年のロシア革命でアメリカに亡命してからは、欧米各地で演奏活動を展開。超人的な技巧と巨体から繰り出す力強い演奏で絶大な人気を博した。また、その演奏家独特の書法によって演奏家たち、特にピアニストを惹(ひ)きつけた。

晩年はロシアに帰る希望を持ちながらもかなわず、70歳の誕生日を目前に米ハリウッドで没した。死後、ピアノ協奏曲第二番を始めとしたピアノ作品が多くのピアニストたちの重要なレパートリーとなった。歌曲、交響曲などその他の作品も年を追って高い人気を獲得した。

2008年、その波乱に満ちた生涯に光を当てる映画「ラフマニノフ ある愛の調べ」が公開された。数々の名曲に絡む3人の女性との逸話を中心に、ロシア革命に翻弄(ほんろう)されアメリカに亡命した姿を描いた。この映画により再び注目が集まり、CDが売れた。
ウラディミール・ホロヴィッツ
(ウクライナ)
1903~1989年
【試聴(Amazon)】
「コンドン・コレクション~ホロヴィッツ」→ 【動画(Youtube)】
「ショパン/バラード第1番ト短調 Op.23」→

【解説】
1904年10月、現在のソ連・ウクライナ共和国生まれ。3歳の時、母親の手ほどきでピアノを始め、キエフ音楽院を卒業。 少年時代に起きたロシア革命によって、祖国ウクライナはソ連(ロシア)の支配下となり、その影響で実家が財産を失った。 音楽学校を出た後、経済的な理由から作曲家になる夢を捨て、生活費を稼ぐためにピアニストとして演奏の仕事をするようになる。 すぐに大勢の人たちを魅了するようになった。顔立ちがショパンに似てハンサムだったこともあり、女性ファンも大勢できた。 1925年に出国。1928年、ニューヨークのカーネギー・ホールでニューヨーク・フィルのピアノ独奏者としてアメリカにデビュー。米国の音楽ファンに衝撃を与えた。 当時勃興していたアメリカのレコード会社が飛びつき、すぐにレコーディングをした。 このころから世界的なピアニストとして認められるようになった。

1933年、大指揮者トスカニーニの末娘、ワンダさんと結婚、四四年に米市民権を得た。三六-三九年、五三-六五年、六九-七四年、八三-八五年の四回にわたって演奏活動を停止したが、ホロビッツ人気は衰えず、特に六五年に十二年ぶりにカーネギー・ホールに復帰した時は、閉場のため場内の明かりが消された後も聴衆が立ち去らなかった、というエピソードが残っている。 また、カーター元米大統領は、在任中にホロビッツ氏を「米国の国宝」と形容、最大級の賛辞を送っている。

かねてから「音楽、芸術に対するソ連のシステムの硬直性」を非難。「帰国しない」と公言していた。 しかし、1986年4月、文化、芸術面にまで及び始めたゴルバチョフ政権下のペレストロイカ(立て直し)、グラスノスチ(公開)路線を背景に、1961年ぶりに故国の土を踏み、モスクワや他の都市で演奏、熱狂的な歓迎を受けた。 ショパン、スクリャビンなどの演奏には特に定評があり、1972年には、ロンドンの王立フィルハーモニー協会から金メダルを授与されている。 1989年11月、ニューヨーク市の自宅で死去した。85歳だった。

本ランキングで4位のルービンシュタインとのライバル関係も有名。 日本公演も行っている。日本語での名前は「ウラジーミル」や「ウラディーミル」と表記されることもある。また、姓は「ホロビッツ」と表されることもある。 亡くなる3年前の1986年のロシアでのインタビューで、20世紀の最高のピアニストは誰だと思うかと聞かれ、 「ナンバー2はたくさんいる。私もその一人だろう。しかし、ナンバー1は一人しかいない。それはセルゲイ・ラフマニノフだ」と語ったという。 (目黒隆史郎)
スヴャトスラフ・リヒテル
(ロシア、出身はウクライナ出身)
1915~1997年
【試聴(Amazon)】
「スヴャトスラフ・リヒテル:ライヴ・イン・ジャパン」→ 【動画(Youtube)】
動画「モーツァルト/ピアノ協奏曲第18番」→

【解説】
超絶な技巧により、聴衆を感動させた。 ウクライナ生まれの世界的なピアニスト。  1915年、ウクライナのジトミル生まれ。父はドイツ人ピアニスト。母もピアニストだったが、両親とは別個に独学でピアノを習得。15歳でオデッサ歌劇場の伴奏ピアニストとして採用された。 19歳の時、初の公開演奏会を開き好評を博したことからピアニストになる決意をし、22歳でモスクワ音楽院に入学、ネイガウスに師事した。30歳で全ソビエト音楽コンクール・ピアノ部門1位。 本格的な音楽活動を始めたのは32歳と、異例の遅咲きのスタートとなったが、プラハの春音楽祭で「現代のリスト」と形容されるなど、旧ソ連国内、東欧圏で伝説的な名演の数々を残した。  西側には一切姿を見せず「幻のピアニスト」と称されたが、ソ連・米国間の“雪どけ”に合わせ、60年、米国を訪問。以後、西側を頻繁に演奏旅行、各地で絶賛され、今世紀を代表するピアニストと評価された。70年、毎日新聞社などの主催で初来日したのを機に大の親日家になり、計8回来日公演を行った。スターリン賞、レーニン賞受賞。トゥールーズ、インスブルックなどの音楽祭を主宰。数多くのCDがある。 のスビャトスラフ・リヒテル氏が1日、心臓発作のため、モスクワ近郊の別荘で死去した。82歳だった。当時、「これでピアノの巨匠時代が終わった」とも言われた。
◆驚異的技巧音の魔術師
 “幻のピアニスト”として西側になかなか姿を現さなかったリヒテル氏は、その来日が社会的に大きな話題を呼んだピアニストでもあった。飛行機には絶対に乗らない、汽車と船にピアノを持ち込んで練習する、などとさまざまな伝説が流れるなか、1960年代から各社が招へい合戦を繰り広げ、70年の万国博に合わせシベリア経由で船で初来日した際には、各チケット売り場には徹夜の列が出来、即日完売する人気だった。  リヒテル氏が“幻のピアニスト”と呼ばれたのは異色の経歴やその音楽の不思議な大きさにもよる。英才教育万能の時代のなかでほぼ独学で、すさまじいまでのテクニックを身に着け、どんな難曲も楽々と弾きこなす技巧と多種多彩な音色は、“音の魔術師”とも形容された。  また、スタジオでのレコード録音を嫌い、実演のみに全力を投ずるのも、今世紀の演奏家が録音・映像を多用するのと正反対のいき方だった。その人間的な演奏への取り組みが大きな支持を得たとも言える。  その演奏は極めて精神的で、哲学的で深遠なスケールを持っていた。レパートリーも、国や時代、伝統にとらわれず、ロシア・ソ連ものはもとより、バッハからショスタコービチまで幅広く取り上げ、各作品の精神性を描き出した。なかでも雄こんなベートーベン、幻想的なシューマン、親しく教えを受けたプロコフィエフなどの演奏は他の追随を許さなかった。  70年代後半からは、現代のピアニストで初めて暗譜(楽譜を見ないで演奏すること)の慣行を破り、舞台に楽譜を照らすライトを一つだけつけて演奏するなど、その音楽も舞台も孤高だった。  一方で、若い演奏家との共演も積極的に楽しみ、バイオリンのカガン(90年没)、ビオラのバシュメットらと“リヒテル・ファミリー”を形づくり、またトゥルーズなどで自ら音楽祭を主宰して、バリトンのフィッシャー・ディースカウら多くの演奏家と共演した。  おしどり夫婦としても名高く、元歌手のニーナ夫人ともども大の日本びいき。日本製のピアノを愛用、「日本は生活の中に美がある」と、来日すると鎌倉の旅館などに長期滞在した。
アルトゥール・ルービンシュタイン
(ポーランド)
1887~1982年
【試聴(Amazon)】
「ショパン:夜想曲集」→ 【動画(Youtube)】
動画「ショパン/ピアノ協奏曲第2番」→

【解説】
今世紀が生んだ屈指のピアニスト。1887年、ポーランド生まれ。12歳でポツダムで神童としてデビューして以来、戦前はヨーロッパ、戦後はアメリカを中心に、1976年に引退するまで、華麗なヴィルトゥオーゾと内面的な音楽性を見事に統一した音楽家として、常に第一線で活躍し続けた。レパートリーは古典派、ロマン派が中心。

1999年、全正規録音を集大成した「アルトゥール・ルービンシュタイン大全集」(RCA)が世界で発売された。 80年に及ぶ演奏活動を繰り広げたルービンシュタインだけに、何と347作品=706演奏をCD94枚組みに収録する膨大なもの。 個人演奏家の全集としては、指揮者のトスカニーニの82枚、バイオリニストのグリュミオの78枚、同ハイフェッツの65枚を抑えて世界最多になる。 大全集は、SP時代のEMI録音から、全盛期のRCA、最晩年のデッカ、とレコード会社の壁を超えて集められており、ベートーベンの協奏曲3、4番、ブラームスの協奏曲2番、ショパンの協奏曲2番、グリーグの協奏曲などはそれぞれ4回にわって録音されているため、ルービンシュタインの音楽の変化を、目の当たりにする楽しみもある。
エミール・ギレリス
(ロシア)
1916~1985年
【試聴(Amazon)】
「べートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番 《悲愴》、第13番、第14番 《月光》」→ 【動画(Youtube)】
動画「グリーグ/ピアノ協奏曲イ短調 作品16 第一楽章」

【解説】
ソ連の最初のピアニストの一人。 その演奏は、堅固(けんご)で、妥協を知らない完璧さで知られる。 しかし、ときに甘美で叙情的も音を奏でる。

ソビエト支配下のウクライナのオデッサで、ユダヤ人の家庭で生まれた。 1931年にオデッサを訪れた名ピアニスト、ルービンシュタインに認められて国際的に注目されるようになった。 学校卒業後にモスクワに転居。 数々のコンクールで入賞した。

第二次世界大戦後の冷戦下において、 ヨーロッパ各地で演奏活動に入る。 ソ連政府から西側諸国での活動が許された最初のアーティストとなった。

リヒテルと共にソ連を代表する名ピアニストとして活躍を続けた。 寡黙な性格として知られる。 宣伝活動もあまりしなかった。

1985年に68歳で死去した。
アルフレード・コルトー
(フランス)
1877~1962年
【動画(Youtube)】
動画「ショパン/エチュード」

【解説】
フランスの世界的なピアニスト。 ショパンの演奏で知られ、パリ交響楽団の初代指揮者も務めた。

19世紀後半から音楽の中心地がウィーンからパリに移った。 そのパリで19世紀末から20世紀初頭にかけて台頭した。 スイス生まれ。父はフランス人、母はスイス人。

著書「偉大なるピアニストたち」によると、 コルトーは「本来打楽器であるピアノを意のままに手なづけて、 フルートやファゴットの旋律、チェロの人間味ある嘆き、 管楽器の華麗な閃光(せんこう)、 大編成の弦楽器による扇動的な音階をピアノで実現させようとした」。

1952年9月、朝日新聞社の招きで来日し、 13都市で演奏会を開いた。 10月9日には山口県下関市で公演し、川棚村(現豊浦町川棚)の川棚観光ホテルに3日間滞在した。 ホテルの2階客室から響灘を望んだコルトーは、厚島に目を奪われて「美しい」を連発。「あの島を譲って欲しい」と当時の山本勝康村長に直訴した。山本村長は「永住されるなら無償で差し上げましょう」と答え、名を「孤留島(こるとう)」とすることを約束した。 すでに75歳だったコルトーは帰国後に体調を崩し、再び島を見ることなく10年後の1962年に他界した。

親戚には彫刻家のジャン・ピエール・コルトー。 作曲家のエドガー・ヴァレーズがいた。(高鳥孝貴)
グレン・グールド
(カナダ)
1932~1982年
【動画(Youtube)】
動画

動画

【解説】
カナダ人。 バッハの諸作品を躍動的なリズムと透き通るような音色で表現し、原曲の精神性を極限まで高めた。 低いイスに座って極端な前傾姿勢で鍵盤を弾き、メロディーを自ら口ずさむなど独特の奏法でも知られる。 孤高の音色は、慈愛に満ち、こよなく温かい。

英米と異なるカナダ独自の芸術家育成を求めた「カナダ放送協会」の支援も受け、演奏の場を広げたグールドは1956年発売の名盤「ゴールドベルク変奏曲」が大ヒット。57年には、冷戦期では異例のソ連(現ロシア)公演を果たして絶賛され、カナダの国民的英雄となった。だが1964年、演奏会活動を突然やめる。聴衆が「闘牛場」のように失敗を期待していると恐れるようになったのだ。スタジオ録音に傾倒し、優れた作品を残すが、やがて精神的安定を失い、薬に頼る生活となり、50歳の若さで息を引き取った。

トロント生まれ。父は毛皮店を経営、比較的裕福だった。母が40歳過ぎで初めて産んだ待望の子だったという。息子を音楽家にする夢を持っていた母の方針でピアノを始めた。  幼いグールドは、母の愛と教育熱心さに懸命に応えようとした。母が病床の2階から、練習曲をうまく弾けないグールドをしかると、グールドは決まって、何か違う小曲を弾いたという。 7歳でトロント王立音楽院に入学、めきめきと才能を現した。

ノルウェーの作曲家グリーグは母方の遠戚とされる。
アルフレート・ブレンデル
(オーストリア)
1931年~
【動画(Youtube)】
動画「モーツァルト:デュポールのメヌエットによる変奏曲 K.573ほか」(1988年、昭和女子大学)

【解説】
ベートーベンやシューベルトの演奏で長年聴衆を魅了し、2008年末に引退した大ピアニスト。 1931年、チェコ・モラビア生まれ。6歳でピアノを始める。 グラーツ音楽院で学び、エドウィン・フィッシャーらに師事。 1949年にブゾーニ・コンクールに入賞。 ベートーベンやシューベルトを得意とし、録音も多い。 ハイドン、モーツァルトからシューマン、リストに至る古典派、ロマン派で多くの名演を残した。 60代後半のときにモーツァルトに集中的に取り組んだ時期がある。新聞の取材に対して「彼のソナタを弾くには、技巧的にも、年齢からいっても今しかないと判断したんです。モーツァルトは、一番難しい作曲家。ピアノ曲とはいえ、歌がその基本にある。歌うように弾くカンタービレに、自分なりの解釈が出来上がったかなと思う」と語っていた。(前川原悠子)
ヴィルヘルム・ケンプ(ウィルヘルム・ケンプ)
(ドイツ)
1895~1991年
【動画(Youtube)】
動画「ベートーベンの月光」

【解説】
第二次世界大戦の前と戦後を通じて、ドイツ正統派を代表するピアニストだった。

1895年、ドイツのベルリン近郊の生まれ。 ベートーベンをはじめドイツの古典派、ロマン派の作曲家の作品に独自の卓抜した解釈を示し、世界中のピアニストに大きな影響を与えた。 ロンドンやニューヨークでデビューした1950-1960年代には、巨匠バックハウスと人気を二分した。教育家としても知られ、シュツットガルト音楽大学の校長をつとめたこともある。 日本とのかかわりも深く、1936年から1979年までに10回来日。日本で発売されたレコードも多く、主なものにベートーベンのソナタと協奏曲、シューベルトのソナタの三つの全集がある。

交響曲、オペラ作品の作曲家でもあった。 1981年のパリでのコンサートを最後に演奏家としての活動から身を引き、1986年から避暑地として知られるイタリアのポジターノに移り住んだ。 95歳で没した。
10 アルトゥール・シュナーベル
(オーストリア)
1882~1951年
【動画(Youtube)】
動画(1950年)

【解説】
二十世紀前半を代表するピアニストの1人。 現在のポーランドに生まれた。幼くして才能を認められ、8歳でデビュー。欧米で広く演奏活動を行い、名声を築いた。 特にベートーベンの名手として知られ、1932-1935年に収録したピアノ・ソナタ全集は、レコード史上初の全曲録音となった。 2002年には、彼の残した録音の数々が、レコード販売大手・新星堂のオリジナルCD(全25作品)として、まとめてリリースされた。 新たにマスター・テープを作製し、これまで他レーベルから出ていたCDよりも音の鮮度を改善。ドボルザークのピアノ五重奏曲作品八一のように、世界初復刻・CD化となった曲もあった。(前川原悠子)

出典:https://www.limelightmagazine.com.au/features/the-10-greatest-pianists-of-all-time/